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ヨメブロ 再入院からさいご4
1月1日
早朝、建太と祥太君が店の売り上げの報告に来てくれた。
ヒデなら絶対に喜んでくれる数字だったのに、
この時のために一ヵ月必死で頑張っていたのに、
ヒデはほとんど反応もなく目をつぶっていて寝ているようだった。
初日の出を見たかったのに、こんな日に限って曇り空だった。
朝先生が来てくれて「年、越せました!」といったら先生は深くうなづいた。
独りでよしみちゃんの置いていってくれたおせちを食べながら、
机にはワインのボトル。なんだか恥ずかしかった。
先生が病室を出て行ってすぐに追いかけて、
「年越すことが出来ましたが、あとどのくらいなんでしょうか」と聞いた。
もう、ここまで来たら先生だって、今日か明日か一週間後か判らないのに
私はこの質問を何度もした。
「とても頑張っています。でも2月までは持たないと思います」という答えだった。
もうそんなに長い時間は残されていないことは知っていた。
でもヒデのことだから先生の予想を裏切って2月までいけちゃうんじゃないか、
1月24日の入籍記念日までいけるんじゃないか、なんて思っていた。
この日は、夜の12時から朝の7時までうなっていて、手の関節の収縮が辛そうだった。
1月2日
便が垂れ流し状態なのでおむつで押さえきれず、浴衣が汚れた。
夜11時から朝5時までうなっていた。手の収縮も激しい。
1月3日
夜9時から11時までうなっていたが少し穏やかだった。
この頃か、私は病室でパソコンを開きヒデの遺影を探していた。
懐かしい写真をたくさん掘り出してもヒデはいつも変顔でなかなかいい写真がない。
やっと見つけた結婚式の神社で撮った奇跡の一枚が実際に葬儀で使われることになった。
寝ているヒデの横でこんなことをしていることに
罪悪感や自己嫌悪に陥ることなんてしょっちゅうだったけど、
良かった時のことを心配する必要なんてないんだから、
もしもの時にヒデが一番幸せなように自分に今出来ることは?
って自分を奮い立たせるしかなかった。
1月4日
ほとんど反応がなくなったヒデが唯一はっきりと反応するのが歯磨き。
もちろん全部看護士がやってくれる。
スポンジの着いた棒で口の中を拭ってつばを吸引機で吸い取る。
口に棒を入れられるのがすごく嫌みたいで厭がったりうなったり棒を噛んで離さなかったりする。
飲み物も飲めない、口がいつも開いたままのヒデの舌は岩みたいにカチカチになっていた。
この日は厭がりすぎて唇を思い切り噛んで下唇が倍くらいにはれてしまった。
夜はずっとうなっていた。
1月5日↓
会社の仕事始めで社員がみんなで面会に来た。
それぞれ今年の抱負とかヒデに話していたけど、反応もないしほとんど起きてもいなかった。
ひでも言いたいことはたくさんあったと思うけど、みんなが来たこと分かったかな?
おだやかでずっと寝てた。
この頃からあまりうならなくなった。
あぁ、また少しレベルが落ちたんだなと思った。
1月6日
血尿が出てる。管の中で血が固まっている。
尿が出なくなってきたらそろそろらしい。尿が出てるだけいいのかな?
意識のレベルが大分下がっているように思える。
最近は目が見えているのかは分からなかったけど、
耳が聞こえているからか、話している人の方に黒目が動いていたのに話しかけても動かなくなった。
目が見えているのか、耳が聞こえているのか、
私のことが分かっているのか、判らない。
1月7日↓
朝病院を出てヒデの精子を保存しているクリニックに行った。
もう間に合わないかも知れないことも
ひでが生きていないと人工授精出来ないことも全部承知で行ったのに、
何時間も待たされてやっと診察室に通されたらヒデの病状や予後を淡々と聞いて、
「訴えられたら困る」とか「倫理委員会を通して」とか「顧問弁護士が」なんちゃらとか
「主治医に子供を作ることに意義があるかの書類を書いてもらって提出しろ」
みたいなことを言われて数分で追い返された。
持っていった資料を見ることもなく、
何度も電話で問い合わせて事情も説明してたのに、
ヒデの自署の同意書も郵送していたのに、
初診の日は決まっていて再入院してから最短の日で
そしてこの日できっと最後だったのに。
ねぎらいの言葉も一言もなく機械のように、そんな言葉いらないけど、
あなたや主治医に私とひでの子供を作る意義なんて解るんですか?
怒りと失望、自分で思ってた以上のショックだった。
病院に戻って、セカンドオピニオンについてどうするかのカンファレンスがあった。
私はこれ以上ひでに苦しい思いをさせたくなかったし、
ヒデがヒデでいられない時間がだらだらと伸びるだけかも知れないことに賛成出来ないでいた。
こんな状態になって病院を移動して強い治療を受けたら
それだけで命を縮めることにもなりかねないとも思っていた。
でもこの日初めて出来るならやってみよう、少しでもヒデが良くなる希望が有るならって決心した。
よしみちゃんと、兄貴と同じ方向を向いて信じようと思った。
もし相手の病院が受け入れてくれるならお願いします。と言った。
カンファレンスの後、先生にクリニックのこと相談したら
「出来る限りの協力はしてあげたいんですけど、嘘は書けないです」と言われた。
ヒデが今の時点で人工授精をするという意思が確認出来るか、
意識が有るか判断出来ないと駄目なのだ。
あんなに子供をほしがっていたのに、しゃべれないだけなのに、
意識がある、ないってなんなんだろう?どこで判断するんだろう?
でも病院の先生はクリニックと違って心があった。
1月8日
意識はまたかなりレベルが下がっている。
タンを自分で飲み込めないのでずっと吸引機でタンを引いてもらっているが血が大量に混ざっている。
この頃私は急にヒデの死をリアルに意識し始めた。
今まで頭では色々考えていた。
最後に向けて行動しなきゃって頭では解ってるつもりだったのに、
突然ヒデがいなくなってしまうことに物凄く怖くなった。
あまり人に弱音を吐きたくない。
でも一人ではどうしようもないくらい怖くて怖くて仕方がなくなった。
1月9日↓↓
タンが多い。薬の副作用でしゃっくりが出てる。便が少し出た。
朝交代して家に帰って、葬儀屋さんのゆいまーるに電話をした。
ヒデがもしもの時はゆいまーるでって言っていて、
私が病院で連絡出来なかったので建太が連絡を取っておいてくれた。
初めてお話ししたのにすごく親身になってくれて電話越しで号泣してくれた。
会いにいきたいけど職業柄行っちゃいけないと思って我慢してるって。
こんなに親身になって心配してくれて、もう葬儀屋とホームページ屋の関係なんて通り越してる!
職業柄なんて気にすることないのに!って一瞬で思えた。
そろそろ病院に戻ろうと思っていた時、
「呼吸がおかしいから来て」とよしみちゃんから連絡が来た。
タクシーで飛んで行った。
向かう途中もそわそわと怖かった。
病室に着くとよしみちゃんが
空気が沢山溜まる袋の着いた呼吸器をしたヒデに「ヒデ!ヒデ!」っと言ってひでを揺すっていた。
あっ、とうとう来たのか、と一瞬覚悟を決めた。
今までなかった酸素の機械がブクブク言ってた。
呼吸がうまく出来なくて酸素の値がかなり下がった。
しばらくして落ち着いたけど、そのまま死んじゃってもおかしくないくらいだった。
あれだけ下がって持ち直すなんて奇跡みたいなことらしい。
酸素の値をずっと見ながらよしみちゃんと兄貴と三人で朝までヒデのそばにいた。
みんなはっきりわかるくらい顔が疲れていた。
セカンドオピニオンが出来るような状態じゃなくなった。
1月10日
大分落ち着いて酸素マスクも袋の着いていないものになった。
酸素の値も100で安定していた。
ヒデは目を開けていることはほとんど無い。
体が麻痺していて舌が下がっているので常にいびきのような呼吸をしている。
起きているのか寝ているのかも解らない。
いびきとしゃっくりでなんだか苦しそう。
亡くなる直前に下顎呼吸といういびきのような特殊な呼吸をするらしい。
じっと聞いていてもこれがどっちなのか解らなくて怖かった。
昼間落ち着いている呼吸が交代して私になった夜になると不安定になる。
先生はまだ体に朝と夜のサイクルが残っているのかも知れないし、
よく有ることっていっていたけれど、こんなことでもショックだった。
1月11日
昼にゆいまーるさんに会った。
自分なりに調べたこと準備したことはあったけど事前に相談していて本当に良かったと思う。
なにも解らない私にいろいろ教えてくれて、安心して任せられると思った。
この日も昼には呼吸が安定しているのに私がいる間は不安定だった。
ずっと酸素の値を見ている。
呼吸が不安定になるとタンを引いてもらったり体の向きを変えたりして、
なかなか酸素が戻らないとこのまま逝ってしまうんじゃないかと怖くなって、
どうして私と一緒のときには悪くなるんだろうと悲しくなった。
先生が左の肺がほとんど動いていないかも知れないと言っていた。
怖い。
呼吸が止まることは心臓が止まることに直結している。
怖い。
この頃は最期の予兆など調べまくってひでと比べて大丈夫かな?なんて確認ばっかりしてた。
1月12日
この日は夜も呼吸は安定していた。
ヒデがヒデでいられないような状態で生きているなんて言えるのか?と思っていたけど、
体があったかくて息をしている、それだけで生きているってことなんだって思った。
生きているヒデに触れられる。
それが途絶えてしまうと思ったら悲しくて怖くて仕方がない。
1月13日
タンが多い。
先生は毎日来てくれてヒデに話しかけてくれる。
いつも病室を出るときに「出来ることがあれば何でも言ってください」と言ってくれた。
先生に「お願いしたい葬儀屋さんんがあるんですが、
勝手に病院の提携の葬儀屋さんになっちゃわないように誰に言っておけばいいですか?」
とこんなこと先生に聞くことじゃないのに聞いた。
そうしたら「自分が伝えておくので大丈夫です」と言ってくれた。
きっと先生のする仕事じゃないのにそこまでしてくれた。
1月14日
目を開くことのなくなったヒデの目を毎日手で開いて確認してた。
この日は目がおかしかった。
黒目がくぼんでるというか白目が黄色っぽくなって盛り上がっているというか、
明らかに昨日までと違った。
すごく嫌な予感がした。
1月15日
日が変わって少しして酸素の値が急激に落ちた。
呼吸が止まった。
頑張ったヒデの最期。
この日は三年前に結婚の顔合わせで私の実家に森田家のみんなが来てくれて、
よしみちゃんと私の母に婚姻届の承認の欄にサインしてもらった大切な想い出の日だった。
24日の入籍記念日まで持つんじゃないかと思っていたけど、
きっとヒデは自分が頑張れる中で最良の日を選んで旅立っていったんだと思う。
ありがとう。
ここまでこんなに長々と書いたけど、再入院してたった二ヶ月の事。
たった二ヶ月で元気だったひではどんどん変わっていって、そして死んでしまった。
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