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お久しぶりです。嫁です。

 

 

 

 

 

 

一周忌の法要も無事に終わって、

 

ちょうど一年前の今日、忘れられない通夜の日でした。

 

あっという間の一年だったけど、

 

たった一年とちょっと前までひでに体温があって息をしていたと言う事も不思議です。

 

もっともっと前の事みたい。

 

 

 

ずっとアップしようと思ってた再入院してからの事、

 

すごーく長いけどよかったら読んで下さい。

 

 

 

 

 

11月17日

 

再入院

 

ろれつが回らない症状が気になって普段の外来とは別にMRIの検査を入れてもらった日。

 

ずっと二人で病院に行ってたのにこんな日に限ってひでは一人で病院に行った。

 

夕方の検査で脳に陰があるからそのまま緊急入院になった。

 

「入院になっちゃった、ごめんね。」って泣きそうな声で電話してくれて、

 

荷物をまとめてすぐに病院に行ったら個室のベッドにぽつんと座っていて、

 

私の顔を見たとたん「ごめんね」って泣き出しちゃって、

 

二日後に予定してた私の誕生日の旅行に行けない事が凄くショックだったみたい。

 

入院中も退院しても何もしてあげられなかったからって一生懸命嬉しそうに計画してくれてたから、

 

本当に悔やんでたし、仕事もやっとこれから頑張れるって時だったから、

 

「なんで今なんだよ」って言ってた。

 

私の帰り際にも「お家に帰りたい、嫁ちゃんと一緒に寝たいのに」ってずっと泣いてた。

 

そのあと私は一人で先生とお話しして脳の画像は白い陰でいっぱいだった。

 

「呼吸や心臓を司る大切な部分にも陰があって突然死もあり得るから、

 

いつでも携帯を肌身離さず持っていて下さい。

 

もし再発だった場合、根治を目指す治療ではなく病気をなるべく長い間抑えて、

 

本人がどう過ごしたいか相談しながらやっていくことになる。」って言われた。

 

帰り道は手も足も震えてた。

 

ひとりぼっちで泣いてるひでがかわいそうだった。

 

個室だったのにどうしてこの日泊まってずっと一緒にいてあげなかったのか後悔してる。

 

 

 

 

 

11月18日

 

大部屋に移動

 

ナースステーションの目の前の部屋に移動していた。

 

心電図と酸素の機械が昨日から体にくっついている。

 

何も変わらず元気だけど、脳の事なのでトイレに行くのにも看護士を呼んで付き添いが必要。

 

脊髄とCTの検査。

 

車椅子で検査から戻って来たひでの手にはでっかい紙袋が二つ。

 

旅行にいった時に渡そうと思って用意しておいてくれたプレゼントを持って来てくれた。

 

忘れられない最後の誕生日プレゼント。

 

その日は、昨日の先生から私への説明をよしみちゃんとアニキを交えてカンファレンスしてくれた。

 

新たに言われた事は

 

「CTの結果で左の首のリンパに腫れが見つかった。

 

完治やよくなる見込みはきわめて少なく、長い将来は難しい。

 

車の運転ももう出来ない。」

 

知らないうちに最後のドライブは過ぎていて、

 

あーもうひでとドライブできないんだと思ったら切なかった。

 

そしてもしもの時に延命措置はどうしますか、ということも聞かれた。

 

今までのカンファレンスで一番厳しい内容。

 

あードラマみたいだなと思った。

 

 

 

 

 

11月19日

 

日が変わってすぐにひでからメールが来た。

 

「嫁ちゃんとおれにとっていい年になりますように」って。

 

左のあごの腫れを注射で抜く検査をして凄く痛がってた。

 

ちょうど一年くらい前にもこの検査をしたな。

 

 

 

 

 

11月20日

 

面会に言ったらひでは爆睡してて起きたらニコッて笑った。

 

明日のPETの検査は私が付き添いでいく事になった。

 

あごの腫れは結局28日に全身麻酔で切り取る事になった。

 

点滴のせいかもしれないけど少しぼーっとして動きや反応が鈍い気がして気になった。

 

 

 

 

 

11月21日

 

ひでは変わらず。

 

はじめてひでの車椅子を押して二人でPETの検査にいった。

 

この頃はまだ自分で歩けたけど、念のために車椅子、付き添い。

 

中まで入ると私も被爆するから承諾書を書いて一緒に中まで入った。

 

あごの手術が26日になった。多分急いでくれたんだろう。

 

白血球も少ないし、腫れが奥の方にあって結構大きいらしくて、リスクの説明を受けた。

 

ひでにこの病院を紹介してくれた、ひでが好みそうなナチュラルビューティーな女医さんだ。

 

夕方よしみちゃんとアニキが面会に来たら、

 

ひでは「こんなに頻繁にアニキが来るなんて、オレそんなに悪いの?」って不安そうだった。

 

「暇なんじゃない?」って言っておいた。

 

酉の市で建太が買ってくれたふなっしーのお面渡したらお気に入り。

 

 

 

 

 

11月22日

 

夜眠れなくならないようにパソコンで動画を作ったり

 

タイピングとかゲームをして頑張って昼寝をしないようにしてた。

 

やっぱり動きが鈍くてすごく早かったタイピングも遅く、間違いが多くて気になった。

 

でもよしみちゃんが買って来てくれたステーキ弁当を自分でお箸で食べていた。

 

この頃数日間は「早く退院するんだ」ってベッドの上で腹筋したりしてた。

 

 

 

 

 

11月23日

 

昼1時過ぎについたらトムヤムラーメン食べてて、

 

やっぱり味覚が少しおかしくて美味しくなかったみたいでほとんど残してたから

 

スタバでラップサンドとコーヒー買って来たら半分くらい食べた。

 

お風呂の介助を頼まれたからお風呂に連れていって、

 

おしゃべりしながら全部洗ってあげて、楽しかった。

 

一緒に入った訳ではないけどこれが最後の一緒のお風呂になった。

 

自分で歩けるけど支えながらじゃないと少し危ない。

 

よしみちゃんが買って来てくれたケンタッキーをたくさん食べてた。

 

 

 

 

 

11月24日

 

1時過ぎに行ったら寝てたけど起きて私を見たらにこっとした。

 

起き上がるのが大変そうだったけど特に変わらず元気だった。

 

動画の仕事をすぐに疲れちゃうから二人で交代しながらやった。

 

帰りは看護士さんに付き添われながらエレベーターの前まで送ってくれた。

 

 

 

 

 

11月25日

 

左に麻痺が出て来たみたい。

 

元々右の脳の陰が大きかったから左から麻痺が出てくる可能性が高いって言われてた。

 

動きが鈍いのもだんだんひどくなってる気がする。

 

明日は生検の手術だから21時から禁食。

 

「もうなれてるから大丈夫」って早めに寝たみたい。

 

 

 

 

 

11月26日

 

手術

 

全身麻酔だから少し心配だったけど、

 

呼吸器を着けて寝たまま帰って来たけど元気だった。

 

「お腹空いた」って食欲はあって、でも明日の朝までは食べちゃダメでがっかりしてた。

 

 

 

 

 

11月27日

 

再発

 

呼吸器も外れてて元気ないつものひでだった。

 

「みみたぶの感覚がない」って言ってたから

 

「そのうちよくなるだろうって先生も言ってたし、

 

もし戻らなくても耳たぶの感覚なんてなくても大丈夫!」って励ましたら、

 

「そうだね」って笑ってた。

 

このころは左の足が上がりにくくて、

 

座っていると左に傾いて来ちゃうくらいの麻痺が出ていた。

 

そして突然薬剤師さんが抗がん剤のスケジュール表を持って来た。

 

ひではまだ何も知らないから、どうしよう。とハラハラして、

 

一緒に「何なんだろうね、間違いじゃない?」とか言って、

 

その夜に先生がひでも一緒にカンファレンスをしてくれた。

 

再発が断定された。

 

しかも脳とあごと直腸にもリンパ腫が見つかった。

 

抗がん剤では完治しない。

 

この短期間で再移植は出来ない。

 

移植するにしても前と同じ強さの治療は出来ない。

 

これはイコールすると前の強い治療でも治らなかったんだから、

 

何をしても完治は出来ないだろうという事。

 

先生はやんわりそう伝えたかったのだと思うけど、

 

突然そう言われてもひでは理解出来ない。

 

「抗がん剤じゃ治らないって事はどういうことですか?また移植ってことですか?」

 

そのひでの言葉に先生も一瞬言葉に詰まった。

 

どういう言葉でどこまで伝えていいか判断出来ないから。

 

どこまで本人に伝えるかまだ家族と話し合ってないから。

 

病室に戻って来たひでは「なんで今なんだよ」とか「なんでオレなんだよ」って言って

 

静かに泣いていた。

 

 

 

 

 

11月28日

 

この日から抗がん剤が始まった。

 

脳は抗がん剤がとても効きにくい、

 

なるべく脳に効くメソトレキセートという薬が使われた。

 

この頃には手を動かすのが結構大変になって来て

 

ナースコールを探すのに凄く時間がかかるみたい。

 

 

 

 

 

11月29日

 

抗がん剤キロサイド。

 

「おもらししちゃった」というメール。

 

ナースコールを探すのが間に合わなかったんだろう。

 

「大丈夫!恥ずかしくないからね!」というメールを返したけど、

 

今考えたらこの頃、頭はしっかりしてるのに体が動かなくなって来て

 

トイレに行きたいのにナースコールを探すのに時間がかかって間に合わなくて、

 

看護士さんに全部片付けてもらって、

 

平気なふりしてたけどきっとすごく辛かっただろうな。

 

おむつを買って来てと頼まれた。

 

この日からトイレに行かずにベッドの上で尿器を使うようになった。

 

歩いたり立ったりするのがもう危ないから。

 

「オレけっこうヤバいのかも」って言っていた。

 

私も赤ちゃんでもおじいちゃんでもないひでが

 

看護士さんにおしっこさせてもらうのを見てて辛かった。

 

 

 

 

 

11月30日

 

お昼にハートとニコニコがいっぱいのメールが来た。

 

ひでからの最後のメール。

 

もう手が細かい動きが出来なくて絵文字だけだったけど一生懸命送ってくれた。

 

この日からおむつになりました。

 

夜中にナースコールが押せなくて何度もおもらしをしちゃう。

 

点滴でいっぱいおしっこしたいのに辛かったね。

 

副作用のしゃっくりも苦しそうだった。

 

私は一回目の入院の時に寛解できずに移植をしなければいけなかった時、

 

再発率の高さや再発の恐ろしさをたくさん調べて知っていた。

 

長い将来は難しいと言われていた。

 

長い将来ってどのくらいなんだ?

 

ひでが寝ちゃったすきにこっそり先生に聞きにいった。

 

「もし今回の抗がん剤が効かなかったら、月単位です。」

 

月単位という言葉、あまり聞き慣れないけど前日に調べて知っていた。

 

数ヶ月とかいったことじゃない。

 

一ヶ月超えられたら次の一ヶ月超えられるかわからない。

 

余命1、2ヶ月ということ。

 

「いつ訳が分からなくなるかわからないから仕事などの大事な決断があるなら

 

早めに聞いておいた方がいいです。」と先生は言った。

 

「医者の言う事はほとんど当たる」看護婦をしていた母が言っていた。

 

 

 

 

 


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